20181229
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1228
風の強い日である。
大学構内を歩いていると、無数の風鈴が周期をずらして鳴っているような、不思議な音楽が聞こえてくる。
「こんな季節に風鈴はないだろう」
よく注意して聞くと、木や柵に強風が当たって放射されたエオルス音が校舎の狭間で何度も反射して鳴っているらしい。
夏のはじめに日光二荒山神社の神橋でやっていた風鈴祭りを思い出す。
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冬は何かを思い出すのにはいい季節だ。時間が冷えて引き締まり、過去が克明になる。
そういえば以前どこかで夏には昔を思い出してばかりいると書いた気がする。
年中過去のことばかりおもいだしているのだろう、私は。
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もう今年も終わる。2018年という一年も過去になるのだ。
今日この文章を書いていたこともいつか思い出す日が来るのかしら。大した内容ではないし忘れる気がするが。
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20181101-20181204
201811??
黒い空から垂直に降下した雨たちは
整然とアスファルトに突き刺さり
街灯の青白い光を散乱し
針のむしろのようである
その上を足早に 爪先立ちで歩く私は
傘も持たず、静かに夜道をみつめている
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20181203
春から夏にかけて この世界の至る所に満ち満ちていた透明な粘性の液体は 秋が深まるにつれ、すっかりどこかに流出したらしい。あれは生命の気配というようなやつで、私みたいな人種は吸い込みすぎると頭がおかしくなる。
いまは私と私以外の事物だけがそこにあり、両者を隔てるものは何もない。 →直射する月光のなんと冷ややかなこと。
最近ずいぶんと調子がいいのは 季節のせいと、日常に「祈り」に関連する活動を多く取り入れているおかげだろう。筋トレしたりね。要は、祈りが大事なのだ、祈りが。
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20181204
わたしの部屋で裸の女が寝ている。 ひどく厭な気分がする。 女は女神でなければならない。
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20180612(201609**)
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とある声優のInstagram投稿を見て、自分が昔書いた日記を思い出した。(https://www.instagram.com/maikonomura102/)
メモ帳を探すと見つかったので電子の海に流すことにする。見るに耐えない箇所もあるが、当時書いたまま貼り付けよう。(それにしても情熱的だが、恋でもしていたのだろうか。)
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20160905
台風の接近に伴い、駒場の森に雨が降っている。大粒で、なまぬるい、実に夏らしい雨である。 アブラゼミの鳴く声は空気中の湿気に遮られ、どこかシャリシャリと余所余所しい。 私はこれに似た音を過去にどこかで聞いたような気がする──そうだ、まだ幼かった時分、小学校の水泳の授業中よく耳にした音に似ているのだ。 プールに潜っていると、プールサイドで話す級友たちの話し声や足音が水面に立つ波に揺られて不思議なリズムで耳に届く。このシャリシャリとしたどこか悲しい音を聞くのが好きだった。もう10年も前の出来事である。
ああ、しかし、夏というのはどうしてこんなにも懐かしいのであろう。 日照りの間アスファルトにしみ込んでカラカラ乾いていた夏の匂いの、打ち付ける強い雨に溶かしだされて空気中に充満しているのもまたいいようもなく懐かしい。 寝床を目指し隊列を組んで夕間暮れの空を飛ぶ鳥たちも、風も、雲も、何もかもが私が過去に見た夏の風景を克明に脳裏に蘇らせる。私はこの夏に居ながらあの夏の景色ばかり見ている!この事実が私をどうしようもなく哀しい気もちにさせるのだ。
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20160926
真夏の空に鎮座し続け、未来永劫その姿を変えることのないように思われた巨大な大理石彫刻が、終ぞ粉微塵になって砕け散った。 夕間暮れの空には入道雲の破片が舞い、陽光を乱反射して中空に薄靄をかけている。 私は、夏の終わろうとしているのを確信した。
20160927
一晩のうちに入道雲の破片が地上まで降りて来、朝日を反射してきらきらと輝いている。町全体が黄金色の光を放つ様子は幻想的を通り越し調和的である。信心深い教徒が神に出会うのはきっと今日のような朝なのだろうと、私はそんなことを考えていた。 日暮れ時、真昼のように青々とした空に大小様々な薄雲がこびり付くように点在しているのに気づく。私を何より驚かせたのはその薄雲たちの色である。それは、今まで見たどんな雲よりも毒々しい赤をしていた。夏が死んでしまったのだ!大量の喀血をして!私は忽ちのうちに此のような悲劇的な連想をした。その空は、その雲は、美的な連想をするにはあまりに鮮やかすぎたのだ。
20180522
ゴールデンウィークの始めから強迫性障害+それに伴う軽い抑うつ的な症状で精神的に非常に不安定になっていた。
今思えばその兆候は今年の3月くらいから現れていたのだが、とにかく、自分は精神的には非常に安定した人間だと思っていたのでとても戸惑い、また、復調に時間がかかった。(今も完治したわけではないのだが、ブログを書く元気が出る程度には回復した。)
これも今思えばなのだが、自分は家を出た後に鍵を閉めたか・火を消したか・電気を消したかなどが気になりいちど家に帰ることを繰り返す人間で、1回の外出で平均2回は家に戻る(単純に忘れ物が多いのもあるが)。これは強迫性障害の典型的な症状らしい。
今回私を苦しめたのは家の鍵や火の消し忘れではないが、もっと早く自分の強迫性障害傾向を認識していればここまで消耗することもなかったであろう。今後に活かしたい。
前置きが長くなったが、私はこの1ヶ月「存在するということの不自然さ」というようなものに取り憑かれていた。(ここまで明瞭に言語化できたのはつい最近で、初期はもっと漠然とした不安感で消耗していた。)具体的にはタナトフォビアやアペイロフォビアという形で症状が現れるのだが、まあ強迫性障害と一括りにしてしまって良いだろう。とにかく一日中それらのことを考えていて、5月最初の1週間は毎日腹を壊していたし毎日鼻血を出していて肉体的にもボロボロだった。さすがに危機感を感じて毎日人に会ったり日の光に当たったりしたおかげか徐々に症状は改善して今に至る。症状を見つめる過程で強迫性障害や鬱など自分の状態を的確に表す病名にたどり着けたのも回復の役に立ったと思う。それと、人工知能におけるフレーム問題の話は自分の症状に最もよく一致していた。(そのサイトには人間にはフレーム問題は起こらないと書いてあったが。)
別に辛かった話を聞いて欲しくてこの記事を書いたわけではないので症状の話は早々に切り上げる。では何を目的に書いたのかというと、昨日の夕方空に出ていた雲が、水でよく解いた白絵の具を太筆に少しだけつけてさっと刷いたような素晴らしい雲で、それを見ているうちに存在することの不自然さがスウと解消されるような心地がしたからである。
雲を美しいと思えるようになったのも実に1ヶ月ぶりである。
2018春
2018032?
周囲に桜の木は見当たらないが、桜の花びらが空の高いところからはらはらと落ちてくる。春というのは、全てがうまくいく季節だ。
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2018040?
朝の遅い時間に犬を散歩へ連れ出す。もやのかかった青い空、見慣れた商店のモスグリーンの屋根、バス停の古い赤いベンチ、あらゆる景色が描きたての水彩画のような発色をしている。
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2018041?
夜、風の音で目が覚める。裏山でけやきの木のしなる音が聞こえる。ある種の原始的な音楽。
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20180413
朝、ゴミを出しに家を出る。いつの間にかイチョウが一斉に若葉を出した。やわらかな若葉を透過して降り注ぐ太陽光の快活さ。
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20180418
ツツジの動物的な赤紫は夜と相性がいい。
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20180420
人間の女の人生というのは、ちょうど植物のそれと同じように、股から生えた二本の脚を育てるためにあるのではないか?
これは、にわかには信じられないだろうが、駅で、若い女の脚をじっと見ていると、だんだんとほんとうのことのように思われてくるのだ。
人間の、日々の喜びや悲しみや、そういった感情が、全部美しく湾曲した脚をニョキニョキと伸ばすための肥料なのだとしたら、そんな非道い話はないと思うが、若い女の脚にはそうと思わせるほどの”何か"がある。
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20180422
夏日。夕方散歩しているとじっとりと汗をかく。夏との決定的な違いは周囲の加速度であろう。夏はあらゆるものが破滅に向かう加速度を持っている。今は破滅の気配はない。時は緩やかに流れ、若葉は、風は、蝶は、己の存在が永遠だと信じて夕日を浴びている。